ブッダが説いた「善悪」との向き合い方とはどんなことなのか?
今世界ではキリスト教離れが進んでいる
その逆に仏教が見直されてブッダが説いた学問が世界から注目を浴びている
株式会社 日向の鳥辺康則です
キリスト教はイエス・キリストを中心として外に神を見出そうとしている
仏教は我がうちにその根源がありすべては自分次第だと言う教えである
ブッダの教えは一般の人と修行僧の人によって違っていたらしい
仕事も家庭も全てを投げ出して出家したプロ修行者と、仕事や家庭に従事しながら生きている一般の人では当然要求される修行レベルが違う
だから修行者にはより厳しい教えが与えられたみたいです
臨終の様子を克明に記した涅槃(ねはん)経と呼ばれるお経があるが、その涅槃経の中に、ブッダが弟子に向けて残した最期の言葉が登場します
ブッダ最期の言葉とは「怠ることなく励め」であったということなのです
仏教とは超人的な神や仏に縋って生きる教えではなく、「たゆまぬ自己研鑽(けんさん)によって苦を手放し明るく生きよ」と説く努力の教えであるのです
その中心となるのが自分自身の内観です
外に求めるのではなく、内に答えを求めているのです
そのたゆまぬ努力に対してブッダは明確に示しています
ブッダは弟子たちに①何を努力すべきか②どう努力すべきかを具体的に示しているということです
ブッダが示した努力の方向性と具体的な方法は次の4つと言われています
1、今やっている、これまでやってきた「悪しきことをやめる」努力
2、これから先さまざまな誘惑があっても「悪しきことはしない」努力
3、今持っている、成している「善きことをさらに伸ばす」努力
4、今までやったことのない「善きことに挑戦していく」努力
言葉で書くと簡単ですが、非常に意味深く難しいことです
善悪というと私たちはすぐに道徳的なことを思い浮かべます
しかし善悪と言っても人によって何を善とするか悪とするかは違う
だからこそ奥が深いのです
何を持って「悪しきこと」とするのか?
何を持って「善きこと」とするのか?
人や国によっても違うかもしれません
では人間が持っている心の中の良心や愛を別に考えたらそんなに違いがないのかもしれません
好き嫌いや損得ではなく心の内から湧き出てくる善悪と言うものです
これがまた簡単のようで難しい
ブッダは私たち人間は平等だとおっしゃった
何において平等であるかというと「愚かさにおいて」平等であるといいました
これは本当にその通りでどんな人にも大なり小なり悪しき習慣が1つ2つあったりします
それをほっとくと最終的には病気になったり、人生の破綻に向かっていくことになりかねません
そして仮に人生がうまくいって、全てが手に入ったとしても、その時に誘惑が来るのです
安定する中年こそ「悪しきこと」に要注意ということも大切です
更に良いことをやって、人生順風満帆だからと言って、怠ってはいけないということです
自分の能力や努力をさらに多くの人に使うべきだと説いてます
そして最後に学びとはゴールのない永遠の挑戦だと言うことです
あぐらをかかずにさらにその先の高みを目指すということ
それがとても大切だと言っていると思いました
シンプルな言葉の中に、深い意味合いがある
今回はそんなことを感じたのでブログに書きました
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