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老子が説く「上善水の如し」とはどのようなことなのか?

日本でも多くの方々に読まれている「老子」ですがそこに書かれていることの本当の意味を理解してる人はどれくらいいるのでしょうか?

もちろん私も意味を理解してるわけではありません

株式会社 日向の鳥辺康則です

例えば「上善水の如し」です

決して新潟のおいしい日本酒ではありませんからね

『老子』の基本的な世界として、人と争って勝ち人の上に立とうとする人間の身には、必ず周囲から恨み・憎しみ・妬み・嫉妬といったマイナス感情が集まり、その人間を亡ぼすというものがあります

だからこそ『老子』は生き残り物事を為すための基本戦略として「上善水の如し」を説いたのです

人と争わず、人の下に立つ」

今の世の中は、多くの人が人の上に立とうとします

マウントを取りたがると言うことです

しかし人の下に立つとはどういうことでしょうか?

それは縁の下の力持ちとも言えることなのです

あえて人の下に身を置き、困っている人間を助けるために動くその在り方を水にたとえているのです

「最上の善とは、水のようなものだ」

水は万物に利益を与えながら争うことがなく、人々が嫌がる場所にいます

具体的には次のようなことです

(1)身を置くのは低いところがよく

(2)心はうかがい知られないのがよく

(3)人と交際するときは思いやりに従うのがよく、

(4)人を動かす言葉は「信」に基づくものがよく

(5)政治は目の前の人民をよく治めるのがよく、

(6)なす事は「道」に任せるのがよく

(7)動くのは時機をとらえるのがよい

そもそも争わないと言うことです

このことに対して詳しく説明した文書を発見したので、ちょっと紹介します

とても私自身勉強になりました

(1)身を置くのは低いところがよい(居は地を善しとす)

すなわち「人の下に立て」という教えです

これは「柔弱」戦略の根幹となるもので、他の六つのルールのベースとなるものです

つまり、高い地位につかず名誉や富を求めず、競争にも参加しない

人々より一段低いところに身を置く姿勢を見せることで周囲からのマイナス感情を避ける

そして、仮に競争の中で成功したとしても手柄を自分のものとせず身を退き、すぐに不争の世界に戻る

それが「居は地を善しとす」ということの意味です

(2)心はうかがい知られないのがよい(心は淵を善しとす)

『老子』はあくまで物事を成し遂げるための教え、すなわち成功のための教えです

そして、当たり前ですが成功しようとする人間の心には、成功しようとする意志やそのための策略があります

しかし、それを悟られれば必ず周囲からは足を引っ張ろうとする動きマイナスの感情が出てくる

つまり、自然と周囲との摩擦が起き気がつけば争いに巻き込まれてしまうわけです

だからこそ『老子』謀略術ではそうした内心を悟られないことが大事だと説きます

そのためにも、あくまで対外的には「人と争わず、下に立つ」姿勢を崩さないこと

(3)人と交際するときは思いやりに従うのがよい(与(まじわ)るは仁を善しとす)

『老子』が説くのは倫理道徳ではありません

ここで説かれているのも人付き合いの際には周囲に思いやり(「仁」)を持てというよりは、その行動が思いやりからのものだと”思われている”状態こそが物事を成すには好都合だという話なのです

(4)人を動かす言葉は「信」に基づくものがよい(言は信を善しとす)

戦国時代は、知識人が各国を飛び回って王侯貴族の前で弁舌を披露し自分を売り込み、各国政府の権力内部ではお互いを追い落とすための非難合戦、誹謗中傷合戦が横行し、敵国に弁論家を送り込んで謀略の罠に陥れることが盛んにされた時代です

すなわち、競争の中で各人が「話し方」を工夫し、言葉の力をぶつけ合うようにして激しく争う時代だったわけです

しかし、『老子』は次のように説きます

信頼に足る言葉は美しくなく、美しい言葉は信頼に足らない

「道」に従って善なる者は弁舌巧みでなく、弁舌巧みな者は善ではない

「道」を知る者は博識でなく、博識な者は知らないのだ(信言は美ならず、美言は信ならず

善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず

知る者は博からず、博き者は知らず)(第八十一章)

ここにあるのは、言葉の力の否定です

弁舌で他人を丸め込む、これ見よがしの知識と理屈を振りかざして人を動かす行為は『老子』から見ればまったく「道」に適わぬ愚行なのです

それはなぜか? 理屈や知識といった言葉の力で他人を無理やり動かそうとすれば、必ず相手には「言いくるめられた」「言葉で押し切られた」というマイナス感情の芽が残る

仮にそのときはよくても、のちのちそうした芽がトラブルを生むことになりかねないのです

だからこそ、『老子』は、言葉で人を動かす際に大切なのは「話し方」などではなく話し手の信頼感(「信」)であると説く

これがここで言う「言は信を善しとす」の意味です

(5)政治は目の前の人民をよく治めるのがよい(政は治を善しとす)

これは、政治の基本は目の前の人民をよく治めることにあり、外に打って出るのは機が熟した場合の例外であることを説く教えです

『老子』の成功モデルは、人にへりくだって不争の世界で力を蓄える「正」

あえて競争の世界に打って出て敵を倒す「奇」

速やかに不争の世界に退いて周囲に還元する「無事」の三段階を踏みます

すなわち、まずは「正」の段階においては目の前の人民を治めることが大事であり、基本でありこれが自然と打って出るための準備ともなる

そうすることで、周囲にプラスの感情が集まり身の安全性が増し「奇」の段階に打って出る力になるからです

そうした感情力学的な下地もなく、いきなり競争の世界に打って出るのは、まったくの自殺行為

だからこそ、治めることは「正」と呼ばれ、外に打って出ることはあくまで例外として「奇」と言われるわけです

(6)なす事は「道」に任せるのがよい(事は能を善しとす)

『老子』謀略術とは、人と争い人の上に立とうとすればマイナスのベクトル(感情)、人と争わず人にへりくだればプラスのベクトル(感情)が働くという、「道」の働きを利用して物事を成し遂げる教えです

その意味であくまで手を下すのは「道」である

人を味方につけるのも敵を倒すのも「道」の力

すなわちそれの具現化した周囲の感情の力によるのであり、決して自分の行動だけでどうにかしようとする行動原理主義の考え方は取らない

「事は能を善しとす」とはそういう意味です(ちなみに、ここでの「能」という字は「任せる」という意味

(7)動くのは時機をとらえるのがよい(動は時を善しとす)

これは、「正」の段階から「奇」の段階に移る際にとくに重要になる教えです

すなわち『老子』の謀略術においては「正」においてへりくだって潜伏しながらも、いずれ「奇」の段階として競争の世界に打って出ることになります

その際の問題になるのがタイミングです

『老子』の著者は「動は時を善しとす」

すなわち時機を逃さないことを重視します

時機を逃さないというのは、(当たり前と言えば、当たり前なのですが)タイミングが来たのを感知したら、できるだけ早くそれに取り組むということです

すなわち無用な様子見などはしない

様子見をしている間に、どんどん成功する確率・勝利する確率は下がっていくからです

この「柔弱」戦略は競争で人に勝ち人より有名になり、 人の上に立つことばかりが重視される現代の価値観へのアンチテーゼにもなっています

そして、このアンチテーゼが正しいことは現実社会に充満しているストレスを見ても明らかでしょう

負けてストレス、勝ってストレス

これは周囲の人間の感情を計算に入れず、争って勝てばそれでいいという発想に原因があるのです

そうではなく、本当に物事を成し遂げたければ、むしろ人と争わず、人の下に立つ

その姿勢によって周囲の人々の感情を味方につけ、その力を利用して成果を手にし、再び速やかに退く

こうすることで初めて身を守りながら真の意味の「成功」を手にすることができる

これが『老子』の発想なのです

どうでしたか?

少しは学びになりましでしょうか?

我々の現代社会を生き抜くための大切なことがたくさん語られているように感じます

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